1985年にW124に搭載された、シングルワイパー「パノラマワイパー」を、ヤナセでは当初「伸縮式アーム」と呼んでいましたが、メルセデスは「eccentric clean sweep」あるいは「eccentric sweep wiper」と呼んでいました。「eccentric(エキセントリック)」とは「普通のものとはひどく変わったさま・風変わりなさま・型破りな」の意で、何が「エキセントリック」かと言うと、一般的なシングルワイパーは単純な「弧の往復運動」であるのに対し、「パノラマワイパー」は1本のアームを伸び縮みさせながらスイングさせること(アルファベットのMを描く様な動き)で、ワイパーのふき取り範囲86%カバーを可能にしたことです。さすがメルセデスと言える仕事ぶりですね。一方でその巧妙な動きを可能にする機構は複雑で、それゆえの問題も孕んでいたのも事実でした。
1985年のW124搭載と同時期にW201にも搭載され、その後のW202,W210,R192にも搭載されましたが、90年代半ばのW203以降は2本ワイパーになりました。なぜ「パノラマワイパー」が廃止になったのか、メルセデスの公式な答えはわかりませんが、ファンの間では「コスト削減対策」が専らです。他には「大雨量時に対応し切れない」・「左右への払い水飛ばし」が原因というものあります。面白いものに「大袈裟なブレードの動きで車が揺らされる」・「ブレードの動きが滑らかすぎて単調で、ドライバーに睡眠効果をもたらす」等々がありました(笑)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・YouTube - furulevi より
「パノラマワイパー」は80年代のメルセデスの物作り哲学「最善か無か」が生んだ1アイテムです。シングルワイパーの動きをここまで昇華させた「ゲルマン・クラフトマンシップ」はさすがと言うほかはありません。
この画期的なワイパー機構が、いつの間にか消えてしまったことは残念でしかたありませんが、言い換えれば「W124世代(W201・W210・W202・R129)でしか味わえないギミック(特別な仕掛け)」と言えるでは・・・
『 DISCOVER MERCEDES ~ メルセデスの真価へ 』
当時のノベルティとして購入者やお得意様に配布されたVHSのキャプチャーです。この度その貴重なVHSの所有者からご提供頂きました。
尚、公開のためYouTubeにアップロードしたところ、7分30秒頃からのナレーションのBGMに著作権の問題があり、処理したところナレーションまで消えてしまいました(涙) 下にその消えたナレーションを記しておきます。
「メルセデスの語りつくせない魅力。メルセデスは安全性は元より、快適性・走行性能さらには環境への適合に至るまで、世界のモータリゼーションの指標となる数多くの価値を秘めています。それを発見する手掛かりは実際にこの車のシートに座り、ステアリングを握る事から始まります。”ディスカバーメルセデス”どうぞあなた自身でメルセデスの真価をお確かめください。」
■W124のデザインの変遷をみると、3つのフェーズが存在します。1985年の発売当初の「初期型」、1990年のサッコプレート装着(他)の「中期型」、そして1994年のフロントエンド・デザイン変更の「後期型」です。フロントエンドだけで言えば、’92年以前を「前期型」、’93年以降を「後期型」と大別されます。前期型がフードとグリルが別物であるのに対して、後期型はこれらが一体化し、それに伴いヘッドライトレンズのデザインが変更されました。また前期型ではグリルの上部にあったマスコットが、フード前端に移動しました。さらにはウインカーレンズの色もオレンジからクリアに変更されています。これらの変更から小ぶりになったグリルにより全体的にスマートになった印象で、逆に前期型が無骨に見えるようになりました。「前期型」と「後期型」、好みの分かれるところですが、私的には断然「前期型」で、デザインコンセプトの一貫性があるのは当然のことして、「後期型」は少しそこから外れている、言い換えれば「無理がある」と感じるからです。その辺のところはヘッドライトレンズの処理に現れています。
・・・さて、皆様の好みは?
去る4月16日~17日に「Spirit of YAMATO Biker's FEST 10th」が無事ではなく「有事」終了ました(笑)。当イベントは今回で第10回を迎えましたが、これまで2日間共晴れたのがたったの2回しかありません。今回も恒例の雨に見舞われ、土曜日の夜半過ぎから降り出した雨は明け方には突風を伴い、夜が明けるとテントはぶっ飛び仮設トイレは倒れるはの悲惨な状況に!・・・・・やっぱり「大和」はこれでなくちゃ!(爆)
荒れた会場の片付けをほぼ終え、雲間に青空が覗き始めた10時45分頃に最初の1台が姿を現しました。
「ラ フェスタ プリマヴェラ」は2009年に誕生し、近畿地方を舞台にしたクラッシック・スポーツカーの春の祭典で、秋に関東地方で開催の「ラ フェスタ ミッレミリア」の姉妹イベントになります。参加資格は原則として本チャンのミッレミリア参加車両もしくは同型車(当然レプリカはダメ)となります。 どれも貴重な歴史的遺産と言える車ばかりです。
今回の「ラ フェスタ プリマレバ 2016」は名古屋市 熱田神宮をスタートし、京都市役所をゴールとする4日間で2府7県約1100Km(通年平均1200~2000Km)を走破するものでした。この年式の車としては結構過酷なラリーで生半可な整備では完走すら儘ならず、現に第3日目に当たる当会場には既に1/3がリタイヤしていました。・・・参加有名人で観れたのは近藤真彦氏のみでした。
右は「よっちゃん」のご親戚の青井様ご夫婦 #11:1938製 シトロエン アバンテ 7CVです。青井様は御歳80歳!車齢は78歳!どちらも現役バリバリです!!!
「Spirit of YAMATO」は暴風雨でさっぱりでしたが、最後に良いものが観れて心が晴れました。・・・・・(六)
半年振りの更新です。 ;^_^A
この間一番時間を費やしたのがE&Aが企画運営に関わっているハーレーダビッドソンを中心とするアメリカンバイカーのイベント「10th Spirit of Yamato Biker's FEST」の開催場所の選定でした。今までの開催場所が閉鎖となり移転の余儀なくなりました。苦労の末京都府南丹市(日吉ダム)に決定しましたが、県を跨いでの移転は結構大変で開催日(4月16日土曜日~17日日曜日)まで一月を切った今頃にしてやっとこさ目処がつきホットしてるところです。「大人のイベント」を目指して立ち上げた「大和魂」も今回で第10回を迎えます。昨年第9回大会でバイク約1000台の参加があり「ようやく認知されたかなぁ」と言う想いです。「10年一昔」と言いますが、振り返ればアッという間のこの10年でした。何事も「事を成す」には10年くらいは掛かると言う事ですね。 (^^;)y-~~~
このアメリカンバイカーの"野蛮"なイベント(笑)にどういう訳か今回、あの堺正章氏(今年は近藤真彦氏・篠塚健次郎氏・横山剣氏らも)ら"エグゼ"な参加者で有名なクラッシックスポーツカーの祭典「ラフェスタ プリマベラ 2016」の一行がやって来ます。「やって来る」って言いましても会場内のメインストリートをチェックポイントとして通過するだけですが、それでも抜群のロケーションで普段めったにお目に掛かれないビンテージスポーツカー(約50台)を真近で見れる事は貴重です。「アメリカンバイク」と「ヨーロピアン・ビンテージスポーツカー」妙な取り合わせですが ^^; ・・・一般には公開されていないので当イベント参加者(有料)のみの特権です。興味のある方はお問い合わせください。(六)
■ 映画の話を続けます。「車」を扱った映画で心に響いた映画2題。
#1■ グラン・トリノ(GRAN TORINO)2009年アメリカ:クリント・イーストウッド主演監督
監督としてのイーストウッドは若い頃のタフでハードボイルドなイメージとは違って、ヒューマニティ溢れた社会派の作品が中心です。彼の撮った映画はどれも良いですが、中でもアカデミー賞作品賞「許されざる者」・アカデミー賞4冠「ミリオンダラー・ベイビー」と「グラン・トリノ」は、色々な意味で私の心に響いた(突き刺さった)ベスト3です。
映画「グラン・トリノ」は頑固な老兵と、彼の愛車:70年代のフォード車GRAN TORINOのイメージを重ね合わせ、孤独な老人とマイノリティのモン族の少年との心の交流を描きつつ、現代社会が抱える問題と一人の男の「老い」と「去り際」をテーマにしています。俳優イーストウッドの集大成・最後の「役者」に相応しい作品です。・・・・・映画の後テーマの歌い出しはイーストウッド自身が務めていますが、またこれが(曲も詞も)とてもシブイのです!
●後テーマ(YouTube):https://www.youtube.com/watch?v=MItMDkc343M
●後テーマ歌詞(原文):http://www.lyricsmode.com/lyrics/j/jamie_cullum/gran_torino.html
#2■ 世界最速のインディアン(The World's Fastest Indian)
2005年ニュージーランド・アメリカ合作:ロジャー・ドナルドソン監督。アンソニー・ポプキンス主演。
「車」とは言ってもこちらは2輪の話で、1000cc以下のオートバイの地上最速記録保持者バート・マンローの実話に基づいた映画です。ストーリーはニュージーランドの片田舎からスピードの聖地アメリカはソルトレイク・ボンネビルを目指し旅立ち、その途中で出会う人々の人情に支えられながら見事記録達成に至るまでのほのぼの感動物語です。こちらは「グラン・トリノ」と打って変って”はんなり”とした気分になり、2輪に興味のない方でも十分楽しませてくれます。
おまけにもう1つ、500Eが登場する映画としてはこれ! すでにご存知の方は多いとは思いますが
■ TAXi:1998年フランス
主人公のタクシー・ドライバーの駆るプジョー406と、ドイツ人銀行強盗団 ”メルセデス”(って!)の2台の500Eがカーチェイスを繰り広げます。お馬鹿な映画ですがその走り自体は結構迫力ものです。
・・・・・・・秋の夜長に是非もう一度!(六)
YouTube: Mercedes 500E from Taxi movie
■ 「ゲレンデ」の愛称で親しまれる「Gクラス」。Gとは「ゲレンデヴァーゲン:独語でオフローダーの意」の頭文字ですが、元々は軍用車両(NATOに正式採用)として開発されたものを民生用にアレンジして登場したのが1979年でした。以来36年間、基本骨格はそのままにエンジン・足回り・内装等数々の変革を重ね今日に至ります。それは当初のスパルタンな本格派「ヘビーデューティ4WD」から「SUV:スポーツ・ユーティリティ・ビークル」への変貌の歴史と言えるでしょう。
■ ボディバリエーションはショート・ロング・キャンバストップ等がありますが、2014年日本でも「金8,000万円也」で発売された超弩級6×6「G63AMG 6×6」なんていうのもありました。G63AMG 6×6は100台限定で現在は生産中止、その後継車として「G500 4x4² King off the road」の生産を開始したとの事です。市場のニーズはSUVが主流ですが、「G」のイメージリーダーとしてこれらの「弩級G」が必要なのでしょう。また他のメーカーの「柔なSUV」には決して真似のできない「G」が「G」たる所以です!
私としては高速道でのスタビリティに多少の問題有りとのことですがショート(G320を最後に以降日本には正規輸入されてません)の方がデザイン的にバランスが良いと思っていました。
ところが最近CS放送で観た映画「ボーン・スプレマシー」の影響で、「ロング・・・格好ええやん!」となりました。・・・単純! ^^ゞ
■ ボーン・スプレマシー(The Bourne Spuremacy):2004年公開のアメリカ映画「ボーン・アイデンティティ」の続編、マッド・デイモン主演のスパイサスペンス。モスクワを舞台にカール・アーバン演じる敵方暗殺者と壮絶なカーチェイスを繰り広げます。この時アーバンが乗るのが「Gのロング」でした。アーバンのクールでハードボイルドなキャラと臨場感溢れる迫力のカーチェイスが重なって、それまで私が抱いていた「ロングの鈍重なイメージ」が払拭され、「ロング」がめちゃめちゃ格好良く感じました。
■ 「G」にスポットライトを当てた映画として近作に「ジェラシック・ワールド」、ブルース・ウイルス主演の「ダイハード / ラスト・デイ」があります。特に「ダイハード / ラスト・デイ」は”Gファン”ならずともメルセデス・ファンなら是非一度は観ておく必要があるかと・・・・・ (六)
■ 各自動車メーカーの4ドアセダン・フラッグシップモデルのフロントビューを並べてみました。あえてエンブレム(マスコット)を画像処理して消してありますが・・・・・エンブレムが無くても判りますよね?
■ 心霊写真の解説に「シミュラクラ現象:類像現象」というのがあります。(人間の目には3つの点が集まった図形を人の顔と見るようにプログラムされている脳の働き)の事ですが、こんな理屈によらずとも自動車のフロントビューは紛れも無く「顔」そのものです。ヘッドライトが「目」、グリルが「鼻っ柱もしくは口」を表現しています。以前にも触れましたが皆様一様に「目」は怒っておられます。^^ゞ
ここに並んだ「顔」は遠目からでも「誰か」が判る強烈な個性があります。デザイナーは限られたスペースと限られたアイテム(ヘッドライト・グリル・補助ライト等)でこの表情を作り出しています。
■ 近年、高度に進化した自動車工業・生産システムの普及により、各メーカーで生産される自動車の性能・品質に以前ほどの差がなくなってきました。そうなるとメーカーは「ブランドの力」で勝負するしかなく、その「ブランド力」とはそのメーカーの歩んできた「歴史」や、自動車作りの「哲学」といったメーカーのアイデンティティであり、それらの「想い」をこの「顔」に精一杯表現しているのです。
「男の顔は履歴書」・「性格は顔に出る」・「40歳になれば人は顔に責任を持たなければならない」等の格言がありますが、やはり人も車も「顔」が大切ですね。・・・さて貴方の好みは? (六)
1: Mercedes-Benz S-Class
2: BMW 7 series
3: Audi A8
4: Cadillac CTS
5: Lexus LS
6: infinity Q70
7: Acura RLX
■ 「パゴダルーフ」と言えばMercedes-Benz 2代目SL W113の特徴ある凹んだルーフの事と、メルセデスファンならずとも旧車ファンなら広く認知されている処です。最近その「パゴダルーフ」のある記述に疑問が生じたのでもう一度おさらいをしてみました。
■ W113のデザインを手掛けたのはポール ブラック:Paul Bracq(1931年フランス生れ)で、1957年ダイムラーのチーフデザイナーに抜擢され、W113の他にW108/W109、W114/W115等の縦目メルセデスの多くを担当しました。1970年にはBMWに移籍、E24を代表する逆スラントノーズ時代を築き、1974年にはプジョーへ・・・そして現在も氏はアーチストとして、またレストアショップオーナーとして現役で活躍されています。
■ そもそも「パゴダルーフ:Pagoda Roof」の”パゴダ”とは日本ではもっぱら「ミヤンマー様式の仏塔(ストゥーパ)」の事ですが、”パゴダルーフ”と言えば建築用語で「アジア全域でよく見られる建築様式で、仏教に関わりある建築物における大きな庇の両端にいくにつれて反り上がった形状の屋根」を表します。
■ パゴダルーフの機能として、乗員の頭上部分のクリアランスを確保しつつ、中央部分を凹ませる事で全高を抑え前面投影面積の減少と低重心化を図り、さらにルーフパネルの面硬性を上げることにありますが、何よりも際立ったデザイン的特徴(個性)を与える事に寄与しています。
■ そこで当初の「疑問」についてですが、最近のトヨタ車アクアやプリウス・FT-86の空力テクノロジーの解説にこの「パゴダルーフ」が使われています。アクアや2代目プリウスの「かもめ形状の屋根」は僅かに両側が高くなっている事からパゴダルーフの発展形と言えます。しかしFT-86(同スバルBRZ)の屋根は確かに溝状に凹んではいますが全体としては明らかに中央が高くどう見ても逆反りしているようには見えません。同様な形状にトヨタ2000GT・MR-Sのハードトップ・マツダRX-8等がありますが、これを「パゴダルーフ」というには私は疑問を禁じ得ません。
■ W113のチャームポイントとなった「パゴダルーフ」ですが、実際は開発の最終段階で変更決定されたもので、大胆なデザイン変更にはかなりの葛藤があったことが想像できます。その判断が正しかった事を後に証明することになりますが、販売当初は「パゴダルーフ」とう言う表現には消極的だったそうです。
「パゴダルーフ」は3代目SL R107にも継承されました。ルーフの凹みは少し抑えられたものの、その凹みは僅かにトランクリッドにも反復され、R107の伸びやかなデザインに貢献しています。
愛称「Pagoda SL」:W113は、広いグラスエリアと居心地のよい室内空間、コンパクトでキュートで「エレガント」と呼ぶに相応しく、生産終了から40余年経って色あせるどころか益々輝きを増すばかりです。
・・・・・・・・・・・(六)
■ 先日ネットのニュースで目に留まった記事に「飛燕の部品、相次ぎ発見」(岐阜新聞Web:7月25日)がありました。「飛燕」とは第二次世界大戦中に川崎航空機(現:川崎重工業)が製作した、川崎キ61陸軍三式戦闘機の事で、空冷エンジンが主流だった日本軍機の中では珍しく液冷エンジンを搭載していた為に機首が絞り込まれた独特のシルエットは、プラモ少年だった私には特にお気に入りの機体でした。この液冷エンジン(川崎ハ40)が実は「ダイムラー・ベンツ社 DB601」のライセンス生産だった事をつい最近知りました。
■ DB601は液冷倒立V型12気筒の航空機用エンジンで、直接燃料噴射式・遠心式スーパーチャージャーを備え1100HPを発生し、当時としては非常に高度で複雑な革新的機構を多数採用されていて、第二次大戦のドイツ空軍の主力戦闘機「メッサーシュミットBf109」に搭載され連合国側に対し猛威を振るいました。特に「バトルオブ・ブリテン」でのスピットファイアー(ロールスロイス製V型12気筒エンジン・マリーン搭載)との空中戦では圧倒的に優位性を示しました。しかし大戦末期には改良されたマリーンを搭載したアメリカのノースアメリカン P-51ムスタングの登場により完全に立場は逆転してしまいました。
■ 当時は日独伊、枢軸国・三国同盟の時代でこの「ダイムラー・ベンツDB601」エンジンはイタリアでもアルファ・ロメオ社でライセンス生産され、「マッキ mc202 フォルゴーレ戦闘機」が開発されました。日本では川崎の他にもう1社愛知航空機(現:愛知機械工業)でも「熱田21型」としてライセンス生産され海軍艦爆「彗星」に搭載されました。残念な事には当時の日本の工業力(工作技術力)では「ハ40」・「熱田21型」共にDB601本来の性能を発揮するまでには至らず、飛燕・彗星は大した戦果を上げることなく終戦を迎えることになりました。
■ このDB601の排気量(33,929cc)を44,000ccまで拡大したDB603を搭載したのが「T80」自動車最高速挑戦車です。「T80」は自動車の世界最高速記録を樹立することで国威発揚に役立てようと考えたヒトラーの命により、フェルディナント・ポルシェが設計を、ダイムラー・ベンツが製作を担当しました。フェルディナントの計算では当時イギリスが持っていた世界記録484.955Km/hを遥かに凌ぐ700Km/hを想定していましたが、残念なことに戦局の激化によりチャレンジすることなくお蔵入りとなりました。
■ 結局、日独伊三国は共に戦争に敗れ(伊は少し事情は異なりますが)、廃墟と厳しい制裁の中から戦後の再スタートをきる事となりました。そしてそれから70年後の今日では三国は共に自動車産業で世界をリードするまでに復興・発展しました。世界は今、グローバル化の波の真っ只中にいます。これは経済の覇権を争う「経済戦争」です。日独伊は自動車産業を「武器」に今再び「三国同盟」を結成し、この戦い <<「経済戦争」と「勝者の論理の戦後秩序」とやらへの挑戦>> に挑むというのは・・・・・敗戦記念日も近いことですし ^^; ・・・・・(六)
■ よく「歳をとると時間の過ぎるのが早くなる」と言われますが、最近つくづくそう感じるようになりました。
学生の頃は授業時間が気の遠くなるほど長く感じられ、はやく学校通いのない大人になりたいとひたすら思っていましたが、最近は何もしないうちに時間ばかりがどんどんと過ぎていきます。一日・一週間・1月・一年があっという間に過ぎてしまいます。
時間という単位は老若男女・万民共通であるはずが、なぜ歳を重ねると早くなる(早く感じる)のでしょう?
■ フランスの哲学者、ポール・ジャネの「ジャネの法則」によると、「心理的な時間の長さは、これまで生きてきた年数の逆数に比例する」とあります。要約すると20歳の青年の一年は1/20に対して60歳の老人(?)の一年は1/60、この比率から60歳の人は20歳の青年の3倍時間が遅く感じるということです。この法則が正しいかどうかは別として、その人が自覚している時間が実際の時間の進み方より遅くなっているため、時間の経つが早く感じるようになると言う事です。
要は、自分の速度(思考や運動能力)が落ちた(遅くなった)が為に、周り(絶対速度・時間)が早く進んでいるように感じてしまっているのです。
■ 時間の感覚に影響を与える要因として次の3つがあるそうです。
1)代謝:代謝が良いほど心の時計が早く進み、時間を長く感じる。
2)時間を気にする頻度:常に時間を気にしていると長く感じる。
3)感情:感激や驚き、恐怖などの強い刺激を受けたときの方が時間が長く感じる。
すなわち「a)新陳代謝が悪くなり、b)あまり時間を気にしなくなり、c)刺激や緊張感のないマンネリ化した生活が時間を短く感じる要因」ということになります。
・・・・ガビィーン! 当たってます!! すべてが当てはまります。単刀直入に言えば「老化」が原因と言う事です。・・・何とかこれ以上時間の流れが加速する事だけは避けなければなりません。かと言って、a)の新陳代謝を良くするって結構大変な事だし、C)だってすぐにどうこうできるものでもない。B)の時間を気にする、これなら今すぐにでも実践できます。
最近時間の過ぎるのが早く感じる貴方・・・時間を気にしましょう!・・時間の経過を常に意識するよう心がけましょう!!・・・そしてその為に「時計」をチェックしましょう!!! ・・・・・(六)
■ 自動車の最新技術の1つに エックス・バイ・ワイヤ(X-by-Wire)があります。この「Wire」とは「電線」を意味し、従来の自動車の運転は人の操作(入力)を油圧や鋼製ワイヤ・ロッドリンク等の機構を介して作動させていましたが、これらの機構を電気的に置き換えて行う技術を「by Wire」と言います。電気信号化する事によりソフトウエアだけで高度な車両制御が可能となります。前項の「自動運転」を実現できたのもこのエックス・バイ・ワイヤの技術進歩があってからこその事なのです。スロット・バイ・ワイヤ、ブレーキ・バイ・ワイヤ、ステア・バイ・ワイヤ、シフト・バイ・ワイヤ等があり「エックス・バイ・ワイヤ」はその総称です。
■ 先行分野に航空機のフライ・バイ・ワイヤ(Fly-by-Wire)があります。1974年初飛行ジェネラル・ダイナミクス社製 F-16
ジェット戦闘機に搭載されたのが最初で、操縦部(操縦桿など)から作動部(動翼)への情報伝達を電気信号に置き換える事により、機体の軽量化・整備性の向上・コンピューターによる操縦の高度化(安全性や燃費の向上)などが実現しました。現在では多くの民間旅客機も採用されています。
■ エックス・バイ・ワイヤ化の大きなメリットとして、ソフトウエアによる制御の幅が広がることがあります。例えばブレーキをバイ・ワイヤ化すれば現在は複雑な機構が必要になるABS(Anti-Lock brake System)や横滑り防止装置・緊急ブレーキ時のアシスト等も、制御ソフトウエアだけで実現可能となります。
バイ・ワイヤの中で既に広く普及しているのが、スロットル・バイ・ワイヤです。いわゆる「電子制御式スロットル」でドライバーのアクセル・ペダル開度をセンサーで読み取り、その信号を伝達してモーターでスロットル・バルブを開閉します。自動変速機と同調させたりリーンバーン・エンジン等で空燃比の調整に合わせた繊細なスロットル操作が可能となりました。
■ ステア・バイ・ワイヤは2013年登場の日産スカイライン・ハイブリットのダイレクト・アダプティブ・ステアリングが量産車世界初として話題になりました。このシステムは2001年メルセデス・ベンツSL(R230)のブレーキ・バイ・ワイヤSBC(sensotronic brake control)と同様にバイ・ワイヤと言っても緊急用として従来の機構をそのまま備えている事から、完全バイ・ワイヤへの過渡期のシステムと言えます。ステア・バイ・ワイヤの課題は道路インフォメーションのフィードバックをどのようにするかがありますが、レーンキープのサポートや横滑り防止装置との統合制御を行うことで、場合によってはカウンターステアを当てるなどより高度な運転制御が可能となりす。
■ エックス・バイ・ワイヤのその他のメリットとして、機構部分を無くする事による軽量化・コンパクト化でコストの低減やメンテナンス性の向上などの他、レイアウト性の向上・パッケージングデザインやインターフェースの柔軟性が増すことにより、従来とは形・大きさ・操作方法の全く異なる自動車が生まれる可能性があることなどが上げられます。
・・・・・「可能となる」ばかりで良い事ずくめ。お陰で自動車は益々ロボット化して行きます。これも時代の流れなのでしょうが、私のようなアナログ世代はもはや付いて行けません。(T_T) ・・・(六)
■ 去る5月27日、Googleが自動運転カー(Google Self-Driving Car)のプロトタイプを公開しました。これまではトヨタのプリウスなどを改造した実験車を使ってきましたが、これはゼロから開発したものでステアリングホイールやブレーキ・アクセルペダルがなく、屋根には360°をチェックする為のセンサーユニットが搭載されています。
2人乗りで荷物スペースも備わっています。当面はマニュアル運転機能付で走行テストを開始し、順調にいけば2年以内にカルフォルニア州でパイロットプログラムを開始するとのことです。
■ 自動運転と言えば昨年の10月、アウディのRS7 Piloted Driving Conceptが完全自動運転でホッケンハイムリンクを激走し、自動運転車として過去最速の240Km/hを記録したと話題になりました。その実際の走行の様子はYouTubeに公開されています。
■ 完全自動運転の技術開発に積極的な自動車メーカーとしては、VWグループの特にアウディ、ボルボ、トヨタ、メルセデス・ベンツなどが上げられます。そしてメルセデス・ベンツは今年のCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー:全米家電協会見本市)でコンセプトカー「F015 Luxury Motion」を発表し、完全自動運転のラグジュアリーカーの一つのスタイルを提案しました。
■ この完全自動運転を可能にするには、情報通信技術:ICT(Information and Communication Technology)を欠くことができません。自動車がICTを取り入れて進化しつつある流れの一方で、IT業界の方からも車に近付いてきている(GoogleやApple等)のは当然の成り行きと言えるでしょう。
■ Googleは全世界の精密な地図データを持っています、更には自社のOS(Android)を搭載したスマホが世界中で使われています。ICTが自動運転の核心とするならGoogleさえその気になれば、クルマと同時に街単位でインフラ整備もやってしまう事も可能と言えるでしょう。そしてそこに自動車メーカーは危機感を持っています。もはや切っても切れない関係にある自動車メーカーとIT企業、今後の係わり様はまったくの未知数です。
Googleの自動運転カーへの本気度は図りかねますが、IT業界の常「移り気・変わり身の早さ」故に、明日にでもポイっといとも簡単投げ捨てるやもしれませんね。 ・・・・・・(六)
■ 先日、夕刻の近畿自動車道を走行していると、前方に何やらよい雰囲気の車が目に入りまりました。近付いてよくよく観るとそれは初代CIMA(Y31)でした。グレイがかったブラウンメタリックのシングルナンバーで、おそらくオリジナル塗装のままと思われ手入れもよく行き届き、全体的に程よいヤレ具合がドライバー席の初老の紳士と相まってとても好い雰囲気でした。
■ Y31の発売は1998年で、世の中バブル景気の絶頂期でした。ハイソカーブームの流れに乗って人々の中流意識の高まりを背景に、ユーザーの高級志向が高くなっていました。日産の開発陣は高級セダン「セドリック」「グロリア」の更なる上級仕様として、3ナンバー専用ボディのCIMAを開発しました。そのデザインモチーフは「鎌倉の大仏」で、ボンネットのマスコット(エンブレム)はアカンサスの葉を模していました。
5ナンバーの枠から開放されたピラーレスハードトップの流麗な外観と、動力性能の高さは当時の国産同クラスとは一線を隔するもので、瞬く間に中高年の憧れとなり爆発的なヒットモデルとなりました。これを「シーマ現象」と呼ばれ、その後の国産3ナンバーブームのきっかけとなりました。
CIMAはその後もモデルチェンジを重ね、現行ハイブリットCIMA(HGY51)は5代目となりますが、ここで言うとろのネオクラ的好い雰囲気のCIMAとはあくまでも初代Y31に限っての話です。
最後に同世代・同クラス(?)の300Eとのスペックの比較表を掲げておきます。
・・・大仏様って!? ・・・なんと!!! ・・・知りませんでした ^^ゞ (六)
■ 前項に続いて再びAMGです。AMGの社名はその創始者であるハンス・ウェルナー・アウフレヒトの「A」、そのパートナーであるエルハルト・メルヒャーの「M」、そしてアウトレヒトの故郷であるグローザスバッハの「G」に由来します。エンブレム(通称アップルエンブレム)は、現在の本社と開発拠点があるアファルターバッハの街の紋章である清い水とリンゴの木、そしてカムシャフトとバルブは卓越したエンジン開発技術を象徴していると言われています。
■ logo type:当初(L-1)はスクエアなアルファベット3文字であったものが、後にロゴの左側に5つの平行四辺形が加えられました(L-2)。正式な時期は定かではありませんが、1990年のDTMマシーン190E EVOLUTION Ⅱには驕られていました。市販車では1992年(本国?)のSL6.0AMGモデルあたりが最初かと思われます。そして(L-3)が現行のロゴタイプですが、「A」のアルファベットが右に傾きました。よく観るとかなり細かいところまでリファインされています。これも正式な時期はわかりませんが、2010年(日本)のS63(65)AMG、E63AMGが最初かと思われます。
■ Emblem:エンブレム(マーク)もロゴタイプの変更に伴い変化しています。当初はカラーの七宝焼きや印刷物(シール等)が存在しましたが、現在ではエンボス加工やエッチング加工等の表現方法が多様化した反面、オフィシャルな場ではモノクロームが主流でカラーバージョンはあまり見受けられなくなりました。
※不易流行:いつまでも変化しない本質的なものを忘れない中にも、新しく変化を重ねているものを取り入れていくこと。 ・・・・(六)
■「AMG」といえば今やメルセデスファンならずとも、大方の自動車好きなら知るところのメルセデス・ベンツのハイパフォーマンスカー(パフォーマンス部門)の事です。我が国においては1986年までベンツの輸入元だったヤナセがAMGも正規インポーターとして扱ったため、早くから輸入車ファンに知られたブランドでした。AMGは1967年にメルセデスのチューナーとして産声を上げ、1971年のスパ24時間耐久レースで300SEL 6.8AMGを駆り総合2位・クラス優勝を果たし、一気にその名を世に知らしめる事になり、1988年にメルセデスのワークスとしてドイツツーリングカー選手権(DTM)に参戦すると同時に、市販モデルの開発販売面でも正式パートナー契約を交わす事になりました。
1993年には共同開発したC36が正規カタログモデルとなり、このC36は大ヒットモデルとなりました。1999年にメルセデス傘下に組み込まれ2005年には100%子会社となり、以降今日に至るまでAMGは高性能・高品質を標榜するメルセデスベンツのフラッグシップモデル、イメージリーダーとして君臨し続けています。
■ 右に歴代の名車を掲げます。
1)AMG 300SEL 6.8 :「RED PIG」~”赤いモンスター”の愛称を持つマシーンで、スパ24時間耐久レース初参加にして総合2位・クラス優勝の快挙を成しその名を世に知らしめる事となったAMGの歴史的アイコンです。
2)AMG 560SEC 6.0-4V :メルセデスV8M117型の腰下ブロックをベースにAMGが6.0Lへとアップデートし、その6.0のブロックにコスワース製のツインカム4バルブ・ヘッドを組み込んだ通称「ハンマーヘッド」エンジンは圧倒的なトルクによる豪快な走りと、そのアグレッシブな外観と相まって「獰猛」と呼ぶにふさわしく・・・これぞ第一世代AMGの真骨頂!!
3)AMG 300CE 6.0-4V HAMMER WIDE VERSION :上記ハンマーエンジンを無理やりW124のボディに押し込み、当時の社長アウトレヒィトにして「最も印象に残る1台」と言わしめ、余りの過激な走行性能の高さから、スリーポインテッドスター・マークを外して販売したなどの逸話が残っています。
4)190E 2.5-16 EVOLUTIN 2 DTM :1992年、ついにDTMで総合優勝を獲得。クラウス・ルドヴィックがドライバーズ・タイトルを、メルセデス・ベンツがマニュファクチャラーズ・タイトルを、そしてAMGはチームポイント・タイトルを獲得し、以後AMGメルセデスの怒涛の快進撃が始まります。
5)C36 AMG :メルセデス・ベンツと初の共同開発となったC36。結果は大成功を収め、これがきっかけで両者の関係がますます緊密となった記念すべき一台です。
6)AMG GT :2013年秋に生産を終了したSLS AMGの実質的な後継車にあたり、我が国においても既に予約受付が始まっており、近日にはデリバリーされるとの事。現行AMGラインナップの中のフラッグシップモデルです。
■ 上に掲げた車がAMG「直系の児」とするなら、次に掲げる3台は「異端児」?
・三菱デボネアV3000 ロイヤルAMG :「デボネアV300
ロイヤル」をベースに、AMGデザインのアエロパーツ、アルミホイール、ステアリング、デュアルテールパイプ、メーカーオプションの電子制御サスペンション(ECS)を装備。またタイヤサイズを14inch/70から15inch/60に変更しサスペンションも固められ、外装色はサラエボホワイトのみとされた。その後エンジンやECS,AT等の改良を重ね1986年から1991年までの間に延べ331台が生産されました。
・三菱ギャランAMG
:1989年、E3#系ギャランデビュー2年後に行われたマイナーチェンジ時の目玉として「ギャランAMG」が追加されました。4G65+FFの型式E33Aモデルをベースに、エンジン、足回り、エクステリア、インテリアと多枝に渡りファインチューニングされていましたが、AMGが直接手を掛けたのは、エクステリア・インテリアデザインとウッドパーツの生産、マフラーチューニング程度であり、エンジン・足回りは三菱がすすめたと言われています。1989年から1992年までの間に延べ1395台が生産されました。
・Diavel AMG-Ducati :2012年
メルセデス・ベンツAMGとドガティのコラボレーションモデル「ディアベルAMGスペシャルエディション」。AMGデザインの専用鍛造ホイール、専用マフラー&エクゾーストシステム、専用アルカンタシート、シリアルナンバー等を装備。このAMGモデルはこの年にドガティがアウディ傘下となったこともあり同年限りとなり、生産台数は不明で日本には130台が輸入されました。
■ 以上の3台の内、Diavel AMG-Ducatiが2012年のモデルという事は、現在のAMGすなわちメルセデス・ベンツのハイパフォーマンス部門としての仕事でありますが、イタリアの二輪メーカーとのコラボレーションにどのような策略があったのかは伺い知ることはできません。一方の三菱デボネア・ギャランに関しては1986年~1992年のAMGは、まだメルセデス傘下ではないものの非常に勢いのある時期であった事と、日本においてAMGは既に知名度の高いブランドであった為に、三菱の求める「プレミアム」性とAMGの事業拡張志向とが合致した結果のコラボレーションだったと想像できます。メルセデス・ベンツのブランドイメージの旗手となった現在のAMGでは考えられないコラボレーションではないでしょうか?・・・・・・まさにAMGの「異端児」です (六)
■ 約1ヵ月ぶりの更新です。この1月の間事務所・サービス工場の移設に追われていました。「別れ」とは元の施設の解体引渡しの事です。地主の都合で更地として明け渡す事になり、約17年間に渡り慣れ親しんできたE&A Club Houseとお別れする事となりました。そもそも私と副田氏の出会いはこのClub Houseの構想・デザインが始まりでした。当時まだヤナセの営業マンだった副田氏は独立後の営業拠点として発起され、バイク仲間・車仲間の溜り場として、共通の趣味の仲間の交流の場としてのClub Houseを立ち上げました。ユニットハウス8棟で構成されたオープンテラス様式の施設は当時東大阪トラックターミナル中で異彩を放っていました。今回の解体にあたりユニットハウスは分解され仲間の元に散って行き、4月17日現在跡形も無くまったくの更地となりました。どのような別れであれ「別れ」は常に寂しさ・せつなさの伴う感慨深いものですね・・・(涙)
■ E&A Club Houseはオープンスペース故に野良猫達も自由に出入りしていました。近所の誰かが餌場を設けてもそれも好かろうとあえて放任していました。ある時など正月明けに来てみると、スーパーセブンのトノカバーの中で猫が出産していたなんて事もありました。
忙しい引越し作業中でも彼等はいつも通り入れ替わり立ち代り姿を見せていましたが、その中に気になる一匹の新顔が現れたのです。若い雄猫で少し痩せていて右後足を痛めているらしく酷くビッコを引いて、何かを訴えるように大きな声で啼くのです。怪我さえ無ければ別段気にも留めないのですが、もう2三日もすれば重機が入って解体も始まると言うのに・・・
そのうち徐々に向こうの方から近づいてきて、私たちの側を離れなくなりました。顔を合わす度にニャ~ンと何かを訴え、哀れで仕方なく少し餌を与えるとガツガツと瞬く間に食べてしまいました。とてもお腹が空いていたようです。足もプランプランで骨折しているかの様でした・・・
安易に野良猫に手を貸してはいけません。その時は責任を負う覚悟で行わなければなりません。でもあまりにも痛々しくて可愛そうで・・・結局副田氏は「依りによってこんな時に、でもこれも何かの縁、神様がセットした出会いやな!」と飼う事を決断しました。飼うに当たり私の甥のペット病院にて徹底的に診断してもう事になりました。心配だった猫エイズも白血病も共に陰性、足は骨折では無く猫の爪が深く入った為の骨の炎症であり、抗生物質の投与で徐々に回復するであろうとのラッキーな結果に・・・晴れてE&Aのスタッフになりました。
名付けて「EVO」、とても人懐っこく甘えた猫の「エボ」君です・・・宜しく!
・・・お前は超ラッキーな猫やな! (六)
■ ローカルな話題ですが、私は自宅(神戸市北区)からE&A(東大阪市長田)まで通うのに、主に阪神高速神戸線を利用しています。以前(平成24年10月、新神戸トンネル阪神高速移管以前)は、新神戸トンネル:600円+阪神高速神戸線:500円+阪神高速700円=合計:1800円掛かっていました。そして現在(平成26年4月以降)は阪神高速通行料金最高額の「930円」で済んでいます。(^_^)v
自宅から湾岸線経由で関空まで行っても「930円」です。この事は地元でも知らない人が多くいます。
この「乗り継ぎ」には条件があります。先ずは対象がETC無線車のみであること。次に乗り継ぎは「新神戸トンネル」⇔「生田川出入口」-乗継時間30分以内(下図E) のみであること。土地勘のある人ほど行ってしまいそうな次の「摩耶」や「京橋」では無効言うことです。
この乗り継ぎでややこしいのは、新神戸トンネルから湾岸線に向かう場合(下図ーA)です。「新神戸トンネル」→「生田川」で上がる→「摩耶」で下りる→下道→「住吉浜」で上がる。となります。逆方向もこの通りでなければなりません。この「生田川→摩耶」の1区間が結構煩わしいのです。
■ 以前から疑問に思ってたことは、何故神戸線と湾岸線を繋がないのか? と言うことです。西宮沿線の公害訴訟以降今現在も阪神高速道路株式会社では大型トラックの湾岸線利用を推奨しています。ところがこの「乗り継ぎ」の為に「摩耶出入口」付近は慢性的に渋滞しています。これでは本末転倒と思うのですが・・・
今回改めて阪神高速ホームページで「乗り継ぎルート」右図を確認しましたが、他にも結構あることと、車種やETCの有無等により色々な取り決めがあることを知りました。
暇なときにでも一度チェックしてみては!? ・・・・・ (六)
■「物作りの哲学」~物作りは作者の思想が体現される。・・・平たく言えば人が作りだした物には、作り手の「人となり」が反映されていると言う事であり、国家で言えばその国の生産物(工業製品から芸術作品に至るまで)にはその国の「お国柄」が反映されているという事です。「お国柄」とはその国固有の価値観・気質・慣習等の事です。例えば自動車で言うとイタリアは嘗ては伝統的な「芸術性と職人技」で自動車を芸術品にまで昇華した程に名車を生んできました。その陽気で社交的なラテン気質でイタ車は(ちょっと緩めでも)「デザイン」や「味」と言った人の「感性」に訴える車作りを得意としています。アメリカは自動車の発明には遅れは取ったものの、T型フォードでは大量生産に成功し自動車の大衆化に大いに貢献しました。新しい国家らしく何物にも囚われない自由な発想と、いかにも大陸的(少し大雑把、良く言えば大らか)な独自の自動車文化を育んで来ました。日本はと言えば後発ながらも、勤勉・実直・研究熱心な気質と弛まぬ努力の結果、(少し個性には欠けるものの)コストパフォーマンスに優れた高品質な日本製自動車の地位を築き上げてきました。
■ ドイツ自動車産業はドイツの輸出量の40%を占めるドイツ経済の屋台骨です。自動車発明国の威信とクラフトマンシップから生み出される品質と性能は折り紙つきで、そのブランド力は今日なお「自動車王国」の名を欲しいままにしています。ドイツ自動車ブランドの構成は独特のヒエラルキー(独語:階級制)が存在します。良く言えば「棲み分け」です。メルセデス・ベンツが高級車、フォルクスワーゲンは大衆車、BMWはその中間に位置します。このようなドイツ固有の「階級制」が生まれた理由を知るには歴史を紐解く必要があります。隣国フランスは市民革命(フランス革命)によって王政が終わり、自動車も早くから民衆の為の「大衆車」が作られていたのに対し、ドイツは帝政プロシア時代からの王宮貴族が存在し、カスタマーはこれらを対象とした豪奢な高級車が必要とされていました。その結果車に「クラス(階級)」と言う概念が生まれ、ユーザーにも自分の所属する階級に相応しいメーカーを選ぶという風習(階級制)が根付く事になりました。欧州の企業にみられるカンパニーカー(会社が社員にその役職や能力に応じた車を支給する制度)では、必然的に社会的な地位と車のクラスが近似しています。現在のグローバル化の波の中で世界の自動車メーカーは生き残りを賭けて集合と離散を繰り広げています。ドイツ自動車メーカーも例外ではなく他国の高級ブランドの買収や提携、さらには棲み分けを無視したかのようなクラス・ラインナップの拡張等で、その階級の境界が曖昧になりつつあるように見えますが、そこは何事にも厳格なドイツ人、しっかりとそれは維持されています。メルセデス・ベンツはドイツの誇りであり、その地位は永遠に不動なのです。
■ つい先日、ドイツとフランスの首脳が相次いで来日しました。それはこれまで頼りきっていた中国経済の先行きへの不安と、一方でアベノミクスにより再び台頭するかもしれない日本経済への期待を込めてのしたたかな外交だと言われています。元々ヨーロッパでは早くから日本文化が評価されていましたが、今日本食やサブカルチャーなど再評価されています。EU諸国は今日本を注目しています。あらゆる業界業種が「日本」をリサーチしています。それはマーケティングのみならずその背景にある文化に至るまでの広範囲に及びます。自動車業界もしかりです。これは日本にとっては大変名誉な事とも言えますが、もしドイツが日本にあってドイツに無い「何か」を手にした時!?・・・・・・・「恐るべしドイツ!」です。 (六)
■ 少しメルセデスからはなれますが・・・
去る2月8日、GKデザイン機構会長の栄久庵憲司氏が亡くなられました(享年85歳)。心より哀悼の意を表明したいと思います(合掌)
氏は広島県出身の日本工業デザイナーの草分けで、僧侶でもあるというユニークな経歴の持ち主でした。代表的な仕事にはキッコーマン醤油卓上びん・ヤマハVMAX・コスモ石油や日本中央競馬会、東京都のロゴ-マーク・ゆりかもめ、秋田新幹線の車両デザイン等々数え挙げればキリがありません。
■ 故郷広島をこよなく愛され、原爆投下後の焼け野原が氏の原点であり、モダンデザインと東洋思想を融合させながら「人」と「道具」のあるべき関係をデザインによって提案し続けて来られました。今から27年前、当時広島に籍をを置いていた私は、何度か氏の講演を聞く機会がありました。30代半ばの私は氏の言葉に「デザイン」の"意味"を、また"使命"の何たるかを改めて認識させられる事になりました。
■ 1961年に発表された「キッコーマン醤油卓上びん」、この小さな作品に氏のデザイン哲学の全てが盛り込まれています。美しい有機的な曲線と、天端・底面の直線の調和。綺麗な透明ガラス製のボトルと、赤い樹脂製のキャップ、そこに醤油を満たした時の黒の3つの色のバランス。そして液ダレのしにくい注ぎ口、安定性、手に持った時の感触と、機能的にも十二分に配慮されています。どことなく"和"の雰囲気を持ち合わせ、"機能美"と表現するにふさわしいシンプルなこの醤油さしは、発表から54年たった今でも決して色褪せていません。延にして4億個以上生産され、世界の食卓にさりげなく「和の心」を添えています。
■ 氏の言葉にある「東洋思想」の「東洋」とは、広義の意味においであって正確には「日本」そのものです。多くの源泉は大陸にあっても、島国日本はそれを培養熟成し独自のものに育て上げてきました。それが同じ北東アジアであっても日本だけが「特別」である所以です。"Cool Japan"ではないですが、その"日本的なるもの"すなわち「日本的価値観」が今世界から注目を浴びています。近代史を強引に一口で言えば「西洋的価値観」が世界を制覇する歴史であったと言えます。そして今現在、一見世界を制覇したかに見えた「西洋的価値観」は、決して盤石ではない事がはっきりしてきました。人々は今再び「迷いと不安」の中にいます。この「迷いと不安」を解く鍵は、ひょっとしたら「日本的価値観」・「日本思想」の中に隠されているかもしてません・・・「東洋の宝石」が光を放つ時代が来るかもしれません。
・・・・・・・・どうせ誰も読んではくれないのだから、自己満足の世界です。 ^^ゞ (六)
■ "最善か無か"はメルセデス・ファンなら誰でも知っている、ダイムラー・ベンツ社のスローガンです。一切の妥協を許さない完ぺきな車作りを目指すと言うダイムラー・ベンツ社の哲学でもありました。
またキャッチコピーとして"全ての形には理由がある"もよく知られていますが、元は前々項でも紹介しましたルイス・サリバンの"形式は機能に従う"とされます。機能を突き詰めて生まれた形はシンプルで且つ、研ぎ澄まされた美しさ(機能美)を持っていると言うことです。
そして"シャーシはエンジンよりも早く"はどこの自動車メーカーよりも早くから「車の安全性」を優先して来たダイムラー・ベンツ社のポリシーでした。
■ これらの「言葉」の生まれた背景には、実直で質実剛健で完璧主義というドイツ人の気質にあります。20世紀初頭のモダニズム運動全盛期に設立された「バウハウス(工芸・デザイン・建築・美術等の総合教育学校)」が合理主義・機能主義の理念を確立し、ドイツは近代デザインの先駆けとなり後の世に大きな影響を及ぼす事となりました。またドイツが生み出す多くの工芸品・工業製品は世界のベンチマークとなりました。
■ 1986年登場したW124シリーズは、安全性と品質を機能美に満ちたボディで包み込んだダイムラー・ベンツ社の理想を具現化した渾身の作品で、その出来栄えは世界の自動車メーカーに衝撃を与えました。
■ 「勝者必衰の理」、90年代中ごろ以降のダイムラー・ベンツ社の歩んだ道は誰もが知るところです。迷走の中自信を失ったのか、何時しか"最善か無か"や他の"言葉"は聞こえなくなりました。
■ それが復活していたのです(私だけが知らなかったのか?)。正確には2010年7月よりキャッチコピーとして再びCMに登場していました。・・・と言う事はダイムラー社(現在の正式社名)は、それはきっと再び車作りに自信を取り戻したと言う事なのでしょう(?)。
右の写真は最新のCLA250です。現代版の"最善か無か"を具現化したモデルです。上の190Eと比べれば(車格は少し違いますが)両者には約30年の隔たりがあります。これを正常進化と言えるのでしょうか・・・それとも・・・その答えは人それぞれで良いのでは。 ・・・・・ (六)
■小林彰太郎:(1929~2013)自動車雑誌「カーグラフィック(CG)」創設者の一人であり、日本の自動車評論家の草分けです。雑誌「カーグラフィック」は1962年4月に創刊され厳正中立な評論ととりわけ美しい写真に、その頃の日本ではまだ知る人の少なかった海外のレース(もちろんF1も)取り上げて、当時の若者に多くの夢を与えました。これを読んで育った人が後にカーレーサーになったり、自動車産業に関わった事実は数多くあったはずです。今や世界自動車産業頂点に立つ日本、この日本のモータリゼーションに「カーグラフィック」が与えた影響は少なくはなかったと思います。
■右の写真は「カーグラフィック」創刊号の表紙で、メルセデス・ベンツ 300SLロードスターが飾っています。この300SLは在日アメリカ軍人から借りてきたもので、特集ではこれを運輸省村山テストコースで180Km/hでのロードテストを敢行し、記事にしています。
■小林氏の「W124」に関するいくつかの言葉を紹介します。
#1W124は ”自動車評価基準では「私の教科書」であり、操安性やコスト度外視の品質にいたるまで長らくベンチマークであり続けた"
#2 "いろんなクルマに乗って基準がわからなくなったら、W124で箱根を走ってくればいい"
#3 "もし無人島に住む事になって、クルマを一台しか持って行けないとしたら、いちばん小さい6発(6気筒)を積んだEクラス(W124)がいい"
そして最後にこうとも・・・
#4 "ベンツはいつでも一番新しいのがいいのに決まっている、徹底的に使って最後にはポーン!と捨てちまうのが正しい使い方"
・・・えっ?ええ~~~そんなぁ~~それにそれはあまりに「もったいない!」
・・・・・小林彰太郎様のご冥福を心からお祈りします (六)
■「目」と言っても近頃急に進んだ「老眼」の事ではありません。自動車の「目」~ヘッドライトの事です。自動車のグリルを人の顔に例えるならヘッドライトは「目」に当ります。「目は」表情を作る重要なエレメントです。「猛禽類の目」とか「猛獣の目」とか鋭い目つきが、前方をしっかり睨む目つきに人は視線を感じ、そちらに目を向けたくなる・・・近年のトレンドらしいです。
■ 自動車のヘッドライト・デザインの変遷は、光源技術の進化とその時代〃の自動車を取り巻く環境変化に大きく影響を受けました。光源技術の進化とは、当初のアセチレンランプから、1909年に始まる白熱球~シールドビーム~電球交換式ヘッドランプ~ハロゲン球~プロジェクターランプ~HID(キセノンランプ)さらにはLEDの登場があります。また環境変化とはよりシビアになる環境性能の向上への要求、すなわち空気抵抗の軽減・LED採用等による燃費性能の向上。安全性の改善へのDRL(デイタイム・ランニング・ランプ)の義務化等、さらには各メーカーの営業戦略(差別化)等によるものです。
■ 当初のヘッドライトは光源から発せられた光を放射面の反射鏡(リフレクター)で前方に向かわせ、レンズカットのプリズム効果で配光をさせていました。後には反射鏡の配光技術が進化し、それに伴いレンズカットも変化することで異形ランプが登場します。80年代に現れたプロジェクターは集光レンズを使う事で、画期的な小型化に成功しました。この事により自動車のフロントデザインの多様化を可能としました。
■ そして上がNew Eクラス、右がNew CEとNew S500Coupeのヘッドライト。インテリジェントライトシステム・LEDハイパフォーマンスヘッドライトでは遂にフルLED化を実現・・・結構きてますねぇ!? これでもコンサバティブ(保守的な/控え目な)方で、他のメーカーにはもっと過激なものが多く見受けられます。
■「形態は機能に従う」とはアメリカの建築家ルイス・サリバンの格言で、ドイツ、バウハウスなどのモダニストの合言葉にもなりました。ドイツ合理主義とも合致した考え方です。そういう意味においては現在の技術水準からすると本来ヘッドライトはもっと小さくなって然るべきで、これはあまりに装飾的に過剰では?・・・と思う一方で、売るが為のデザイン(メーカーの差別化やアイデンティティの主張)がデザインの機能(役目)の一つと捉えれば、これもありかなと・・・
■ 左の写真は92’500Eのヘッドライト廻りです。当時は少し威圧的に感じたこの顔も、今日では程良く肩の力が抜けて親しみやすくなったように感じます・・・・・あくまでも私の主観ですが(六)